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映画「ライフ いのちをつなぐ物語」に
YOSHIKIがコメントをよせています。
それにしても…そうそうたるメンツのコメントですね~。
本日の産経新聞です。
今週が最終回ですね。
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msn.産経ニュース
● 小松成美 ミュージシャン・YOSHIKI(4)
音楽こそが“希望”を導く
18歳で館山から東京に出たYOSHIKIは、アルバイトをしながらライブ活動を始めた。
「Xをバンド名にしたのはアルファベット1文字なら目立つと思ったからです。それにXという文字には、未知数、無限の可能性という意味があった。何も知らない素人でしたが、日本のロックバンドの頂点に立ってやるという意気込みでした」
毎夜、演奏を重ねながらYOSHIKIとToshiは、自分たちの音楽が日本を席巻することを疑わなかった。だがYOSHIKIとXのメンバーの自由な振る舞いが、至るところで物議を醸したのも事実だった。
見たこともないドラムの早打ちも、空気を切り裂くような高音のボーカルも、派手なメークや衣装も、スプレーで固め逆立てた長い金髪も、周囲に衝撃を与え、「彼らはいったい何者なのか」という興味を抱かせた。嫌悪する者もいたが、Xのパフォーマンスと楽曲は、ティーンエージャーやコアなロックファンの注目の的になっていく。
ステージを見た大手レコード会社からメジャーデビューの誘いが来ても、YOSHIKIはいとも簡単にそれを断った。
「プロデビューすることが目的じゃなく、僕たちの望む音楽を自由に表現できる場所を求めていたんです」
Xがインディーズで活動した80年代、ハードロック、ヘビーメタルというジャンルは、マニアのための音楽だと位置づけられていた。Xはそんな既成概念をぶち壊していくことを目指し、古い考えを押しつけるレコード会社や音楽評論家と戦った。
自分が社長となってレコード会社を立ち上げ、アルバムを発売し、精力的に全国ツアーを重ねたXは、すぐにロック界の寵児(ちょうじ)になっていった。
1989年4月、CBSソニー(当時)からアルバム『BLUE BLOOD』でメジャーデビューを飾ると、驚異のセールスを記録した。
Xが起こした変革の風は他のバンドにも影響を与えた。レコード会社との前例のない契約も、テレビ番組への出演も、メッセージを込めた楽曲のオリジナリティーも、ビジュアル系と呼ばれることになる奇抜なファッションもXがもたらしたものだ。
「目の前に壁があれば、むしろ燃えました。どんなに高い壁があっても絶対に諦めず、ぶち壊して前進する。それがXの合言葉でしたから」
90年代に入ると、ロサンゼルスに移住してのレコーディングや東京ドーム公演、ミリオンセラーなど、破竹の勢いだった。
しかし、不可能などないと思えたXにも、やがて、暗雲が垂れ込める。不眠不休のアルバム制作と全国ツアーでYOSHIKIの体は傷み、たびたび入院を余儀なくされた。92年8月にぶち上げた海外進出は、その後棚上げになる。そして、ついに鉄壁だったバンドに亀裂の生じる日が訪れる。
Xではもう歌えない 去りゆく友への思い
「97年4月、ロサンゼルスのレコーディングスタジオに僕を訪ねてきたToshiが、Xを脱退したいと言いました」
「もうXでは歌えない」と告げたToshiは、他に追求したい世界を見つけたと言った。
YOSHIKIは、脱退を切り出した親友の瞳を見た瞬間、二度と彼が戻らないことを察知する。
「あの頃、『DAHLIA』というアルバムを作っていたんですが、僕は完璧を求めるためにToshiに過酷なレコーディングを強いていました。まるで彼をマシンのように扱った。そんな中で、彼はXとは違う生き方を求めたんですね」
他のボーカルを探しXを続けることも考えたが、録音したToshiの歌声をレコーディングルームで聴き続けたYOSHIKIは、ある事実に突き当たる。彼というボーカルがいなければXの存続は不可能だと悟るのだ。
「僕の楽曲は、すべてToshiのために作った曲でした。つまり、Xの曲は彼以外には歌えないものだったんです」
解散を決めたYOSHIKIは、Toshiと言葉を交わさぬままラストライブを迎えた。
「Xを去っていくToshiに怒りを抱いたこともありました。でも、最後のステージの上で向き合った彼は、保育園で出会い、28年間も一緒に過ごした幼なじみのToshiだった」
その後2人は、98年5月のHIDEの葬儀を最後に、再び会うことがなかった。
Toshiの活動を伝え聞くことはあっても、同じステージに立つことはないと、YOSHIKIは思った。
99年11月の皇居前でのピアノ演奏を機にミュージシャンとしての活動も再開したYOSHIKIは、クラシック曲の作曲や指揮、ソロプロジェクトに時間を割きながら、次第にXというバンドへの想(おも)いを強くしていった。
「新しい音楽を作りながら、Xがどんなに凄(すご)いバンドだったかを改めて感じていたんです」
時が流れ、心の傷は静かに癒えていた。
「会うことはなかったけれど、いつの日かToshiが戻ってきたなら、もう一度Xを復活させたい。自然とそんなふうに思えるようになったんです」
そして「X」の復活 もう迷いはない
まるでその思いが通じたかのように、2006年10月、1本の電話がロスのスタジオに入る。Toshiからだった。
「9年ぶりに声を聞いて、抑えられない感情が沸き起こったんです。何度か会ったあと、HIDEのために作った曲を歌ってもらった。そのToshiの声は、本当に素晴らしく、この声のためにまた曲を作りたい、そう思えました」
YOSHIKIの中でXを再結成する決意が固まった。ついに、10年の時を経てXが復活したのだ。
08年3月に東京ドーム3DAYSを成功させたXは、翌年には初の海外公演となる香港と台湾でのライブを行った。
「もう、迷いはなかった。Toshiと語り続けた世界進出の夢を叶(かな)えるんだと強い気持ちでいられました」
だからこそ、09年7月、再起不能の危険さえあった頸椎(けいつい)椎間板ヘルニアの治療のため、首にメスを入れた。
「長年の激しいドラミングで頸椎を痛め、左手の感覚を失っていました。でも手術は成功し、多少しびれは残っていますが、今はこれまで通りドラムを叩(たた)くことができます」
今年9月に南米で、10月にはアジアでツアーを行うYOSHIKIは、15年ぶりのアルバムを完成させるため、日夜スタジオで編集作業に追われている。
今、YOSHIKIの心には18歳のある光景が蘇(よみがえ)る。Toshiと2人で、Xでの「日本征服」、そして「世界征服」を語り合った日のことだ。
アルバムに連なる新曲には彼の意思が込められた。例えば、『Born to be free』にはこんな歌詞がある。
Born to be free(自由になるために生まれた)
Nobody can steal our life away(誰にも俺たちの人生は奪えない)
「父、HIDE、TAIJIの死と向き合った自分は今、生かされていることの意味を考えます。今は音楽こそが“希望”を導くと信じられるんですよ」
未来など信じられなかったYOSHIKIは、もういない。彼はこの先もステージに立ち、生きることの尊さを叫び続ける。
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SUMMER SONICの時のインタビューのようですね。
14日東京で記者会見も開いたので、その時ですかね?
YOSHIKIは相変わらず喉が弱いですね…声が…。
いや…それ以前に聞こえにくい(笑)
(どうせ英語は聞き取れないですけど…。)
・YOSHIKI直筆サイン入りツアー使用ドラムスティック
・YOSHIKI直筆サイン入り Yoshikitty
http://page3.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/c288331268
http://page3.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/c309680901
YOSHIKI FOUNDATION AMERICAのオークションは、
毎週何かしらの出品がされているのですが。
確か前回はスタンリーのサイン入り商品も出品されていましたね。
今回はYOSHIKI本人からの商品第3弾が出品されています。
遅くなってしまいましたが8月21日の産経新聞です。
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msn.産経ニュース
●小松成美 ミュージシャン・YOSHIKI(3)
夏恒例のロックフェスティバルとして音楽ファンを刺激し続ける「サマーソニック」。2011年8月14日、会場となった千葉幕張のQVCマリンフィールドに詰めかけた若者たちは、ワールドツアーの真っ只中(まっただなか)に帰国してステージに上がるX JAPANの登場を待っていた。
「レッドホットチリペッパーズはじめ、偉大なアーティストと同じステージに立てることを誇りに思います。X JAPANという名前の通り、日本を背負うつもりでパフォーマンスをします」
昨年夏のロラパルーザに続き、大勢のミュージシャンと肩を並べる一大イベントへ参加したのは、YOSHIKIの邁進(まいしん)する心の表れでもあった。
「大勢のファンがいるから僕たちはこうして活動が続けられる。自分たちでも驚くほど、Xは進化しています。だからこそ、まだXを知らないファンに、今の僕たちの演奏を聞いてほしいと思いました」
Xが登場すると、会場はざわついた。Xを支持する熱烈なファンとポップロックや洋楽を聴きに来た観客、その両者には明らかな温度差があった。しかし、新曲とともに「紅」「ENDLESS RAIN」が披露されると、熱量の違った空気は勢いよく混ざり合い、熱波となってスタジアム全体を覆った。Xは彼らを知らなかったファンの心も鷲掴(わしづか)みにしたのだ。Toshiの歌声に合わせた騒々しく楽しげなXジャンプはスタジアムに特別な一体感をもたらした。
この日、YOSHIKIにはどうしてもファンに伝えたい思いがあった。
「98年に亡くなったHIDEと、今年7月にサイパンで突然逝ってしまったTAIJIは、これからもずっとXと同じステージに立っている。そうみんなに伝えたかったんです」
92年に脱退した元Xのベーシスト、TAIJIは、サイパン行きの飛行機の中でトラブルを起こし、その翌日には留置されていた警察署内で息を引き取った。再び古くからの友人を失った彼は、スタジアムの聴衆にこう語りかけた。
「HIDE、TAIJIのために…」
「3・11の東日本大震災で亡くなった多くの方たちのために…、哀悼の意を表し1分間祈りたいと思います」
YOSHIKIが両手で持ったマイクに向かい絶叫する。
「黙祷(もくとう)っーー!!」
真夏のロックフェスティバルに訪れた静寂は、失った大切な命に向け、YOSHIKI自らが音楽とともに生きていくことを誓う瞬間でもあった。
8月は、YOSHIKIにある記憶を呼び覚ます。そして、少年だった頃の悲しみが少しも薄れていないことを何度も確認しなければならなかった。
◆二度と帰らない父死と向き合う日々
「この胸の痛みだけは長い年月でも癒やすことができない。普段は、無意識にその悲しみを体の奥に封じ込めているんでしょうね。でも8月の日差しや額を伝う汗を感じると、一瞬であの時の衝撃が蘇(よみがえ)るんです」
10歳の夏休み、彼は最も大切な人を失った。
「突然に父親が亡くなりました。自殺だったんです」
小学5年生の「林佳樹」の心はこなごなに打ち砕かれ、二度とは元に戻ることがなかった。
生前、父は若くして老舗の呉服屋を営んでいた。佳樹には父こそが英雄だった。
「着物や日本刀といった伝統文化も、クラシック音楽も、楽器の演奏も、父が教え、導いてくれました。時には外国車で颯爽(さっそう)と学校に迎えにも来てくれた。そんな父が何よりも自慢でした」
父は、幼い頃から小児ぜんそくで入退院を繰り返していた佳樹を慈しんだ。4歳からやっているピアノも、4年生で始めたトランペットも父が与えたものだ。それらは佳樹の表現手段となり、なくてはならないものになる。
そして、努力することの尊さや、忙しく働く母と5歳下の弟を思いやる心も教えてくれた父は、佳樹にとって男らしさの手本でもあった。
「父のような男になりたい。それが最初の僕の夢でした」
だが、その父は1976年8月、34歳の若さで消えてしまうのだ。
「5年生の夏休み、楽器クラブの練習から家に戻ると、居間に敷かれた布団に父親が横たわっていたんです」
白い布を顔にかけられた父の姿を見た佳樹は、最悪の事態が起きたことを察知した。
「泣いている母に代わって、親戚の人たちが『お父さんは病気で寝ているんだよ』と言いました。もちろん、僕はそれが嘘だと分かっていた。お父さんは死んで、もう二度と帰ってこない。その恐怖に、痙攣(けいれん)を引き起こすほど泣きました」
佳樹は葬儀でも立っていられないほど憔悴(しょうすい)し、父の死を受け入れられなかった。葬儀が終わって数日もすると、家から父の物すべてが片付けられた。気丈に店に立った母は、まるで以前から3人家族だったように振る舞い、二度と父親のことを話そうとはしなかった。
「あの哀(かな)しみを乗り越えるには、父の存在を忘れるしかなかった。母も、僕と弟も。あの日から二度と父について話すことがありませんでした」
佳樹が父の死の真相を知ったのは葬儀の後だった。親戚の家で偶然に耳にした自殺という死因に、佳樹は激しく動揺した。
「なぜあんなにも大切にしていた家族を置いて一人で逝ってしまったのか。それがどうしても理解できませんでした」
最愛の父に対する愛情は、時には怒りにも似た激しい感情に転化し佳樹の体に渦巻いた。いつしか、佳樹の心には「どんな未来を思い描いても死からは免れない」「死は、自分のすぐそばにある」という暗い思いが根を下ろしていた。
中学、高校時代は、自分を押さえつけようとする力に反発し、不良の名をほしいままにした。死を恐れず、未来など信じられないという気持ちが、彼を喧嘩(けんか)やバイクでの暴走など、命を顧みない刹那的な行為に駆り立てた。
「死が悲しいこととは思えませんでした。そんな自分は破滅に向かって生きていくしかない、そう覚悟していましたね」
◆命を輝かせるロックそして「X」の誕生
佳樹の荒れ狂う心の唯一のよりどころとして音楽があった。ピアニストになる夢を抱き始めていた彼は、父を亡くした年にロックに出合う。その曲が孕(はら)む猛烈なリズムが、彼に、胸の鼓動を実感させた。
「11歳の誕生日、母にドラムを買ってもらいました。以後、ドラムを打ち込む瞬間だけは心と体が一つになって、自分は生きていると感じられたんです」
父を失い、暗澹(あんたん)たる絶望をドラムにぶつけていた佳樹。ロックこそ、彼にとって命を輝かせる確かなものだった。彼の隣にいて、ロックの魅力を語り合ったのが幼なじみの出山利三(でやま・としみつ)、後のToshiだった。
「4歳のときに保育園で出会ったToshiは、小学校から高校までずっと一緒の学校で過ごしたんです。小学6年生のとき、僕たちは最初のロックバンドを結成したんですよ」
中学でも高校でも、時間を忘れてバンドの練習に熱中した佳樹と利三。レコードを聴いて好きな曲をコピーするだけでなく、佳樹はオリジナル曲を作り始めた。
やがて、人生を大きく旋回させる瞬間が訪れる。
「高校2年の夏、Toshiと同級生たちと、新しいバンドを作ったんですよ」
佳樹が付けたバンドネーム、それが「X」だった。
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■ 2011年08月14日
「産経新聞」(発売中)
掲載が遅くなってしまいましたが、
すでに発売されています。
もう販売しているのを捜し求めるのは難しいですが、
直接、集配所などに行くと購入出来ます。
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msn.産経ニュース
● YOSHIKI 心にはいつもHIDEがいた
2010年8月8日、シカゴの気温は30度を優に超えていた。
灼熱(しゃくねつ)の光線の下、市の中心地にある公園「グラントパーク」の特設舞台に歩み出たYOSHIKIは、視界に広がる青空と2万人の観衆を前に、勇み立つ気持ちを抑えられなかった。
セットされたドラムのスツールに腰を下ろし、シンバルのネジを自分で締めながら、黒い革のジャケットを着たToshiの背をみつめると、彼の視線に応えるようにToshiが振り返り、ゆっくりと微笑(ほほえ)んだ。再び、空とファンとに目を向けたYOSHIKIは、心の中でこう叫んでいた。
「HIDE、見えるの? 今日、アメリカ進出という俺たちの夢が叶(かな)ったよ。この国のロックファンに、俺たちの曲をライブで届けられるんだよ」
今は亡きXのギタリストHIDEに叫びかけたYOSHIKIのドラム・カウントでスタートしたオープニング曲は英語版『Rusty Nail』。ドラムと一体になるToshiのボーカル、PATAとSUGIZOのギター、HEATHのベースに、ステージを見上げる2万人の体がひとつになってうねり始めた。
米国内で開催される最大の野外ロックフェスティバル「ロラパルーザ」に登場したXは、新参者でありながらハードかつメロディアスな楽曲でその存在を誇示した。
彼らは、ふたつとない指紋を押すように、強い旋律とリズムを観(み)る者の心に刻んでいったのである。
およそ1時間のステージを終えたYOSHIKIは、休む間もなく30ものメディアの取材を受けながら、その胸の奥で、HIDEを失った絶望と、その先に希望を見た日のことを思い出していた。
「シカゴでは、高揚感に包まれながらも、二度とステージに上がれない、もうミュージシャンとして生きていくことはできない、と考えた頃の記憶がよみがえっていました」
突然の友の死に自分を責める日々
1998年5月1日(現地)、ロスの自宅から自らが経営するレコーディングスタジオに向かう車の中でYOSHIKIは悲報に触れた。HIDEの死を国際電話で聞かされ、一睡もせぬまま翌朝日本へと飛び立ったのだ。
「スタッフからHIDEが亡くなったと聞かされても嘘だと思っていました。なぜなら、HIDEとは、頻繁にXの新たな活動の相談をしていたからです」
Toshiの脱退によりボーカルを失ったXは解散し、97年12月に東京ドームでラストライブを行った。しかし、YOSHIKIとHIDEは、ミレニアムには新生Xで再び活動しようと、新たなボーカル探しに時間を割いていた。
「2人でボーカルも探していましたし、お互いのソロ活動も伝え合っていました。そんなHIDEが僕に黙って逝くことなんて、信じられなかった」
深夜自室で亡くなった状況から事故の可能性が大きかったが、当時の報道はその死を一斉に自殺と報じた。
日本に戻ったYOSHIKIを待っていたのは受け入れ難い現実だった。誰よりも信頼し、尊敬し、自分の肉体の一部のように感じていたHIDE。彼の亡骸(なきがら)を前に、正気ではいられないほどの衝撃を受けながら、YOSHIKIはメディアに対応し、葬儀の準備にも参加しなければならなかった。何より彼を震撼(しんかん)させたのは、傷ついたファンたちの行動だった。HIDEの後を追う少女たちのことが報じられると、5月6日の通夜の日、YOSHIKIは「HIDEの悲しむような行動は取らないで」と、ファンに呼びかけた。
「ファンに向かって『この悲しみを乗り越えてほしい』と語りかけました。けれど、誰よりも悲しみから逃れたいと思っていたのは僕だった。死ぬべきだったのはHIDEではなく、未来など信じていなかった僕だったはずなのに。そう考えていたんですよ」
葬儀が終わり、暮らしているロスに戻ると張り詰めた緊張の糸が切れた。自分と出会っていなければ、HIDEには違う人生があったはずだと思いながら、自分を責めた。神経は衰弱し、寝ることも食べることもできぬまま、ただ部屋に籠(こ)もる日が続いた。幼なじみで一緒にXを結成し同じ道を歩いたToshiは自らの意思で彼の側を離れ、新しいXを作ろうと誓ったHIDEはある日忽然(こつぜん)と彼の前から消えてしまった。
「悲しみは日を追って大きくなり、すべては自分のせいだと思うようになっていました。だからこそ、ステージに立って演奏し、拍手を受けることなど二度とできない、と考えたんです」
YOSHIKIは、親しい者たちに「バンドを続けることはできない」「アーティストとして表舞台に立つことはもうない」と引退を仄(ほの)めかし、作曲家やプロデューサーとして細々と活動できればいい、と告げていた。事実、YOSHIKIは以後一切の活動を止めてしまうのである。
希望を取り戻す天皇陛下への奉祝曲
絶望の淵(ふち)にあったYOSHIKIにある依頼が持ち込まれたのは99年の夏だった。11月に行われる天皇陛下ご即位10年をお祝いする「祝賀式典」で披露する曲の作曲と、当日のピアノ演奏を、天皇陛下御即位十年奉祝委員会から依頼されたのだ。
栄誉に胸を突かれながら、もうステージに立たないと決めていたYOSHIKIは、すぐに決断を下せなかった。
「思いあまって母に相談をしたら、『こうしたご依頼をいただけたことに感謝しなくては。その気持ちを大切にしてお引き受けしたら』と、言ってくれたんです」
母の助言に従い依頼を引き受けると、彼はロスの自宅へ戻り、ピアノの前で作曲を始めた。3日間寝ずに書き綴(つづ)った譜面には、1曲のピアノコンチェルトが完成していた。ピアノ協奏曲ハ短調「Anniversary(アニバーサリー)」を書き上げ、翌日から祝賀式典の演奏のために1日8時間も鍵盤を叩(たた)き続けた。いつしか、ピアノに向かう時間は、乾ききったYOSHIKIの心を少しずつ潤していった。
11月12日、天皇陛下ご即位10年をお祝いする国民の祭典が皇居前広場で開催された。午後6時半過ぎ、燕尾(えんび)服を着たYOSHIKIはステージにあがり、二重橋にお出ましになった天皇陛下、皇后陛下に深く一礼した。オーケストラをバックに演奏を始めたYOSHIKIは無心だった。
「ステージに上がりピアノの演奏をする自分は、こんなにも自然なのだと思えました。まるで呼吸するように指が鍵盤の上を動いていったんです」
曲が終わると天皇、皇后両陛下が笑顔で拍手を送られた。広場を訪れた2万5千人の観衆も喝采(かっさい)を惜しまなかった。
「僕の曲が必要とされている、誰かの喜びになる、そのことに驚き、それが素直に嬉(うれ)しかった」
今こうして生かされている自分が戻る場所はやはりステージしかない。自らの音楽を作り続けていこう。この演奏で希望を取り戻したYOSHIKIは、間もなく、再びミュージシャンとして活動することを決めていた。
「心には、常にHIDEが寄り添っていました」
それから11年を経て立ったシカゴのステージ。燃えるような熱狂があったその場所は、YOSHIKIに激動の軌跡をフラッシュバックさせたのだった。
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■ 2011年08月07日
SiriusXM BONEYARD - YOSHIKI RADIO EPISODE IV
今回で第4回となるYOSHIKIラジオ。
TAIJIトリビュートと題して
選曲され放送されたそうです。
X JAPANの " JADE " から始まり、
" Tears " で放送終了。
Linkin Park / Iridescent
Queen / The Show Must Go On
Radiohead / Exit Music(For a Film)
Scorpions / Wind Of Change
Korn (feat.Skrillex) / Get Up!
Avenged Sevenfold / So Far Away
Slipknot / Psychosocial
Led Zeppelin / Stairway To Heaven
David Bowie / Space Oddity
他にも上記のものを流したそうです。
「BLOOD RED DRAGON」の
宣伝もしたようなのですが、
どんな内容だったかは不明…。
音声をアップしてくれている方がいました。
本当に毎回、ありがたいことです…。
自分は、自分ちで聴ける環境にないので、
本当に助かっています!!
ありがとうございます。
■ 2011年08月07日
「産経新聞」(発売中)
「YOSHIKI / 佳樹」の著者である、
小松成美さんによるコラムが掲載されています。
内容は2010年からのX JAPANのこと。
読んだ感じだと、どことなく「YOSHIKI / 佳樹」の
終わりから、今までの経緯が語られているようにも思えます。
今回はロラパルーザまでの話。
今週から毎週日曜日に連載されるそうです。
合計4回かな?
内容は以下のmsn.産経ニュースと同じです。
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●ミュージシャン・YOSHIKI(1) 絶対に世界で結果を出してやる
小松成美
108年前にロンドンで誕生したコンサートホール「O2シェパーズ・ブッシュ・エンパイア」。ローリングストーンズやデビッド・ボウイ、ザ・フー、オアシスといった後に世界を席巻するイギリスのロックスターたちが出発点としたこの舞台に、2011年6月28日、X JAPANが立った。
新人と同じ野心と情熱
初の欧州ツアーの初日、X JAPANのリーダーであるYOSHIKIは、立錐(りっすい)の余地なくホールを埋めた観客を前に、早鐘のように打つ鼓動を感じていた。
「18歳で館山から上京し、小さなライブハウスで演奏を始めた頃のことを鮮明に思い出していました。自分たちの音楽を届けたいという情熱と、必ず頂点に昇ってやるという野心を胸に生きていたあの頃のことを」
東京ドームの5万5千人を前にした壮大な陶酔感とは別な、無闇(むやみ)に猛(たけ)る感情を彼は愛(いと)おしく思った。
「まさに新人バンドの気分ですよ。日本での実績やポジションなんて、一切頭になかった。Xのライブに初めて訪れた人たちを虜(とりこ)にしてやるという意気込みと、自分たちの音楽が必ず受け入れられるという自信と、ただ今ある激情のまま突っ走るんだという思いが、螺旋(らせん)になって体の中を渦巻いていましたね」
腕を交差させ「X(エックス)」と叫ぶイギリスの若者を前に、YOSHIKIはツーバスをセットしたTAMA製のクリスタル・ドラムを激しく打ち鳴らす。この日、世界配信された新曲『JADE(ジェード)』がオープニングで披露されると、4階まである客席がファンのストンピングで揺れ始めた。全編英語の歌詞をボーカルのToshiが歌いあげると会場の熱は一気に上昇していった。YOSHIKIは言った。
「日本のロックバンドがアメリカや欧州で通用するはずがない、そう言われていることなど百も承知ですよ。でも、だからこそやってやろうじゃないかという気持ちが湧き起こる。Xがアマチュアで活動した頃も、メジャーデビューした頃も、『Xなんて売れるはずがない。トップに立てるバンドじゃない』と言われ続けてきた。そんなふうに言われれば言われるほど絶対に結果を見せてやるという強い気持ちが持てました」
アンコールを含め、全10曲を終えると、YOSHIKIは会場のファンに語りかけ、やがて客席にダイビングして、ファンの両手に身を任せた。
「Xで活動し始めた頃のように暴れ回ってしまうんですよ。もう、生傷と打撲が絶えないけど、ファンを前にすると逸(はや)る心が抑えきれなくて。最初に世界ツアーを夢見たのは小学生のとき。92年8月にはNYのロックフェラービルで海外進出の記者会見を行いました。20年かかっちゃいましたけど、思い続ければ夢は叶(かな)うんですよね」
このツアーの活況と呼応するようにiTunesで配信された『JADE』は、ロックチャートで、日本はもとより、スペインとスウェーデンで1位を、フィンランドで4位、フランスで7位、ドイツで9位を獲得してしまった。
欧州ツアー8カ月前に行われた全米ツアー。10年9月25日のロサンゼルス公演から10月10日のニューヨーク公演まで7カ所7公演を行い1万9300人を動員したアメリカ公演に先駆け、米メディアはYOSHIKIに対し異例ともいえる反応を見せていた。ロサンゼルス・タイムズやUSATODAYが彼の特集記事を掲載し、全米3大ネットワークのひとつABCは、プライムタイムの「ワールドニュース」で「日本からの輸入品」と題しYOSHIKIを克明にリポートした。イギリスから“輸入”され全米を震撼(しんかん)させたビートルズになぞらえ、YOSHIKIと彼が率いるXがそれに続く存在になると紹介したのだ。翌日には彼の元に数十のメディアから取材が申し込まれることになる。
欧米の人々の心を掴(つか)む日本文化の中で、ゲームやアニメーション、漫画、ハローキティなどのキャラクターと同一線上にあるX JAPANは、クールジャパンの象徴として認知されてきた。毎年夏にサンディエゴで開催されるコミコン・インターナショナルでX JAPANやYOSHIKIが話題に上がるようになったのは90年代からのことだ。が、現在、YOSHIKIの周囲に起こっている化学反応(ケミストリー)は、サブカルチャーへの興味や一過性のブームとは一線を画するものである。
世界進出のドリームチーム
「X JAPANの体制を一新したんですよ。10年の初め、僕がそれを決断しました」
当時、それまでX JAPANがCDの販売やコンサート運営を契約していた会社がYOSHIKIやメンバーに支払うべき印税や前払い金を支払わず、不正な経理が露呈したため、YOSHIKIは提訴の準備をしなければならなくなっていた。家族のように親しい顧問弁護士のエリック・グリーンスパンにはXが日本で置かれた状況を説明し、新しいマネジメント体制を築きたいと告げていた。
「僕にとって父のような存在でもあるエリックは、アメリカの映画や音楽といったエンターテイメント界では知らない者がいない実力者です」
エリックはYOSHIKIにある男の名前を告げた。
「エリックが以前、僕に紹介してくれたマーク・ガイガーが、アメリカで最も大きなエージェント会社であるウィリアム・モリス・エンデヴァー・エンターテイメントにヘッドハンティングされたところだったんですよ」
YOSHIKIと同じ歳(とし)のマークは、出会った頃、音楽配信をメーンとしたネットビジネスで隆盛を極めるベンチャー企業のCEOだった。エリックの紹介で出会った2人は多くの時間を有さず、親友になっていた。
「マークがウィリアム・モリスにいるなら迷うことはなかった。すぐにエージェントを任せることにしたんです」
ウィリアム・モリスは、クリント・イーストウッドやナタリー・ポートマンといったムービースターや、エミネム、ローリングストーンズらトップミュージシャンと契約を結ぶエージェンシーだ。その主要メンバーとなったマークはYOSHIKIの才能を最も認める者の一人として、YOSHIKIに、X JAPANのアメリカや欧州での成功の可能性を熱く説いた。もちろん、プロデューサーでもあるYOSHIKI自身にも世界進出のための緻密なロードマップは描けていた。
「08年に映画『ソウ4』の主題曲として『I.V.』を提供し、iTunesで全世界23カ国同時発売が配信され、ずっと公言していた“世界進出”が一応形になったんです。しかし、僕が目指していたのは海外で本格的なツアーを行うこと。すぐに決断し、彼らとともに全米デビューと本格的なツアーを計画することにしたんですよ」
資金を管理するビジネスマネジャーも、Xのポテンシャルを示すため戦略を練るマネジャーも、世界のメディアに対応するパブリシストも、最高のメンバーがYOSHIKIの夢と自信に賛同し、集(つど)った。
もはや彼に迷いはなかった。
「10年8月、米国最大のロックフェスティバル、ロラパルーザへの出演を決めたんです」
YOSHIKIの新たな挑戦は、このドリームチームとともにスタートしたのだった。
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【プロフィル】YOSHIKI
2007年に再結成したロック・バンドX JAPANのリーダー。夏フェス「サマーソニック」のメーンアクトとして13日大阪、14日東京に初登場。 ◇
【プロフィル】小松成美
こまつ・なるみ ノンフィクション作家。第一線で活躍する人物のルポルタージュを得意分野とする。著作に『中田英寿 誇り』『勘三郎、荒ぶる』(幻冬舎)など。
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■ 2011年08月03日
HFPA PARTY in
Presentation by YOSHIKI
突然入ってきたニュースなので、
まったく把握していないのですが…。
ゴールデングローブ賞の主催団体HFPAパーティー
にYOSHIKIが出席して、
プレゼンターを勤めた。そうです。
と、そう書いてあります(笑)
動画
写真
http://www.life.com/image/120343235
http://www.daylife.com/photo/03oZ4VM0fqgDF?q=yoshiki
http://www.gettyimages.co.jp/detail/120342746/Getty-Images-Entertainment
http://www.gettyimages.co.jp/detail/120340750/Getty-Images-Entertainment
http://www.gettyimages.co.jp/detail/120342900/Getty-Images-Entertainment
http://www.gettyimages.co.jp/detail/120333927/WireImage
海外記事
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● YOSHIKI、ハリウッドでプレゼンターに
米国現地時間8月3日(水)、米ゴールデングローブ賞の主催団体HFPAパーティーにYOSHIKIが出席し、エンタテイメントに関わるNPO組織や奨学金制度の助成金の授与式でプレゼンターを務めた。HFPA/Hollywood Foreign Press Associationとは、1940年代にロサンゼルスを拠点に活動する外国人記者たちによって結成された組織だ。
このパーティーは毎年行なわれる昼食会で、HFPA幹部組織のメンバーを正式発表するとともに、エンタテインメントに関わるNPOの組織や奨学金制度に助成金が送られるというもの。HFPAが招待する著名人、重要関係者は厳選された250名のみだが、助成金のプレゼンター10名のひとりに起用されたYOSHIKIは、「日本のミュージックアイコン、偉大なるスタン・リーの新たなるスーパーヒーローのインスピレーション」と俳優ケビン・ベーコンとHFPA会長に紹介され登場した。
同様にプレゼンターとして名を連ねたのは、レオナルド・ディカプリオ、ケビン・ベーコン、マーク・ウォールバーグ、テイラー・ロートナー、ジェラルド・バットラーといったそうそうたる顔ぶれとなった。
HFPAのメンバーが選考するゴールデングローブ賞が映画賞として高い地位を築いてきたことで、現在ハリウッドでの存在感は非常に大きいものだ。パーティー当日レッドカーペットでインタビューを受けたYOSHIKIは、全米で放送中のYoshiki Radioで、7月17日に急逝した元XのTAIJIを忍ぶ追悼番組がを8月7日(日)に放送することを発表した。
X JAPANのワールドツアーの日本公演として位置づけられている<サマーソニック>の大阪公演と東京公演に出演するため、YOSHIKIは近々帰国、日産スタジアムでのライブ以来約1年ぶりの日本公演を行なう予定だ。9月には南米ツアーへ突入する。
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■ 2011年07月21日13:00 - 14:00
Comic-Con 2011 in
at
もう…ずいぶん前のことになってしまいましたが。
ちょっと忙しくて記事をまとめることが
出来ていませんでした。
申し訳ありません。
というわけで…。
7月23日のサンスポです。
もちろん、今回の内容は
「BLOOD RED DRAGON」が主ですね。
BLOOD RED DRAGON OFFICIAL SITE
http://www.bloodreddragon.net/
「PREVIEW ISSUE ZERO」
ちょっとほしいですね…。
これは日本で手に入るんでしょうか…?
どうしても欲しいなぁ…(汗)
これ、冒頭でYOSHIKIがドラム叩いてますが、
" JADE " PVのメイキングでトイレで叩いてるシーンです?
トイレはまあ…CGでも、なんでも消せてしまいますけど。
って…。着眼点が違う??(笑)
てか、そもそも「アニメ」なのに、
出てくる「絵」がすべて静止画なので、
感想も何も述べられないという…(汗)
その様々な原画(というのかな?)が出ていますので、
まずはそれのまとめ。
http://shadowgrail.deviantart.com/art/
Blood-Red-Dragon-preview-243805997
YOSHIKIがアップした写真ですが…。
右の人…デーブスペクターかと思った(苦笑)
http://pmd.nowlive.com/ew_comiccon_stanlee_800.mp4
この動画は?
何かの番組?インタビューでしょうか?
それにしても左の女の人。
YOSHIKI。そして爺さん。
この光景がすでにアニメですなぁ…。
http://www.youtube.com/watch?v=8ZpLolQX1rc
これは会場の外での様子ですかね?
http://www.youtube.com/watch?v=yuhXbJNu8BU&feature=related
これが「PREVIEW ISSUE ZERO」でしょうか?
アップしてくれている方に感謝!!
こちらはComic-Comの様子の動画です。
こちらは写真。
海外記事
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● オタクの祭典コミコン開幕!YOSHIKI、「スパイダーマン」の生みの親と会見!新コミック・シリーズでYOSHIKIという名前のキャラクターに
[シネマトゥデイ映画ニュース] 7月21日、カリフォルニア州サンディエゴで、恒例のコミック・コン・インターナショナル(通称コミコン)がスタートした。全米のみならず、世界中からポップカルチャー・ファンが集まる一大イベントで、4日間の開催期間中に約13万人が参加するとみられている。この日、X JAPANのYOSHIKIがスタン・リー(『X−メン』や『スパイダーマン』の生みの親)、トッド・マクファーレン(『スポーン』の作者)と共にコミック・シリーズを始めるという記者会見を行った。「Blood Red Dragon」というコミックで、YOSHIKIという名前のキャラクターが主人公だ。
コミコンはいわゆるオタクと言われるような熱心なファンに気に入ってもらえると、さまざまなソーシャル・ネットワークで一気に良い評判が広まるということもあり、特にSFやコミックの映画化作品など、ハリウッドがコミコンを新作発表の場とするようになって久しい。収容人数が6,500人という巨大なホールHという会場では、毎日各スタジオが目玉となる作品を紹介。長時間列に並んでも入れなかったりという盛況ぶりだ。
初日に開催された20世紀フォックスのプレゼンテーションでは、ジャスティン・ティンバーレイクとアマンダ・セイフライドが共演する『インタイム(原題)/ In Time』、ノオミ・ラパス、シャーリーズ・セロン主演、リドリー・スコット監督の『プロメティウス(原題) / Prometheus』、そしてジェームズ・フランコ、アンディー・サーキス主演の『猿の惑星:創世記(ジェネシス)』と、3本の話題作が紹介された。
『インタイム(原題)/ In Time』は、『ガタカ』の監督であり、『トゥルーマン・ショー 』の脚本家でもあるアンドリュー・ニコルが脚本・監督を手がけるSFスリラー。25歳になると、もうそれ以上は年を取らなくなるという未来が舞台。その後、1年しか生きられないが、お金で時間を手に入れることができるため、金持ちは永遠に生きられる。ティンバーレイクは、金持ちから時間を譲ってもらうが、殺人罪で追いかけられることになる若者を演じている。
『プロメティウス(原題) / Prometheus』のパネルには、シャーリーズ・セロンと、今作の脚本家であり、フォックスのプレゼンテーション全体の司会を務めたデイモン・リンデロフが参加。パネルの途中で、現在、アイスランドで撮影中のリドリー・スコットとノオミ・ラパスがビデオ映像でライブ出演すると、大きな拍手が巻き起こった。
もともと『エイリアン』の前日譚として開発された企画だったが、スコットは、「『エイリアン』シリーズのDNAはあるが、それだけで、すべてまったく新しいもの」と語った。彼が初めて3Dで撮影した作品だが、「これから2Dでは撮らない」と言うほど、3Dをいたくお気に入りだ。特撮に関しては、「昔、ダグ(ラス)・トランブルに、ライブでできるならライブでやるべきだと言われた。デジタルでやる方が安くなるということはないよ」とのこと。
セロンは、『マッドマックス』を撮る予定だったため、この話が来たとき、受けることができなかったが、『マッドマックス』の撮影が延期になり、再びスコットから電話をもらったそうだ。その時点で、セロンは「脚本はもっと良くなると思い、デイモンやリドリーと共に脚本作りにかかわった」と言う。
『猿の惑星:創世記(ジェネシス)』のパネルには、ルパート・ワイアット監督とアンディ・サーキスが登場。『ロード・オブ・ザ・リング』のゴラムや『キングコング』でキング・コングを演じたサーキスは、今作ではシーザーという猿を演じている。モーション・キャプチャーを使った撮影の様子が紹介されたが、視線など、あまりにリアルな表情に驚かされた。ジェームズ・フランコは、シーザーの育ての親である科学者の役にふんしている。
またホールHにおける今年最初のパネルは『トワイライト』シリーズの最終章となる『トワイライト・サーガ/ブレイキング・ドーン』で、ロバート・パティンソン、クリステン・スチュワート、テイラー・ロートナーたちが登場してファンを沸かせた。(取材・文:吉川優子 / Yuko Yoshikawa)
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● YOSHIKI、「ブラッド・レッド・ドラゴン」でアニメ・キャラ化
米国現地時間7月21日(木)、米国のアニメコンベンション<コミコン・インターナショナル>にて、YOSHIKI本人が題材となっているアメリカンコミック「ブラッド・レッド・ドラゴン/Blood Red Dragon」の披露記者会見が開かれた。
会見はサンディエゴ・コミコンにて、映画トワイライトの会見後すぐに行なわれ、YOSHIKI、スタン・リー(マーベルコミック:スパイダーマン、X-MEN、ハルク、アイアンマン等の生みの親)、クリエイターのトッド・マクファーレン(バットマン、アメイジング・スパイダーマン等のイラストを手掛けた)も同席。米国を中心に世界中から記者300人と数百人の映画関係者、約2000人の観衆の中で大盛況のもとで開催となった。
「ブラッド・レッド・ドラゴン」はYOSHIKIが主人公のストーリーだ。実世界と同様ストーリに出てくる主人公のYOSHIKIもロックスターとして活躍するアーティストだが、自らピアノで、ある音符を鳴らすとスーパーヒーローに変身し、闇の力を打ち負かしていくという。当初ドラゴンに変身するとのアナウンスであったが、タイトルからして、その線は変わらずか?
既に映画化の話も複数オファーが来ているとのことで、YOSHIKIは『打倒バットマン!』とこの作品に関する意気込みを語ってくれた。今回の披露記者会見では、YOSHIKI作曲のミュージック・チップが挿入された予告版コミックが全員に配布され、その斬新なアイディアも関係者を賑わせていた話題のひとつだった。
今回の記者会見に関しては、7月17日の突然の悲報となったTAIJIの急逝報道を受け、会見への出席が危ぶまれていたところだったが、「Show Must Go On!/(何が起ころうとも)ショーを続けなければならない!」とYOSHIKIは語り、無事の開催となった。あまりの突然の悲報だっただけにYOSHIKIのショックは未だ癒えていないが、スタッフによると努めて元気に振舞う姿があったという。
ヒーローに変身するときのメロディーは、やはりYOSHIKIによるメロディなのだろうか。ヒーローの名はイラストからするともしかして佳樹なのか…、興味は尽きないが、更なる新たなアナウンスを待つことにしよう。
STAN LEE(スタン・リー)とは
パウ!エンタテインメント(POW! Entertainment)の創始者。現在同社のCOO、会長も務める傍ら米国最大手のアメコミ出版社マーベル・エンタプライズの名誉会長でもある。1977年に新聞の連載漫画として同時配給された『スパイダーマン』は初登場以来、空前の大ヒットとなり世界で500紙以上に掲載された。以来マーベル・コミック(Marvel Comics)が世に送り出してきた代表作のキャラクターを発案した人物として世界的に名を広める。代表作に『スパイダーマン』『Xメン』『アイアンマン』『ファンタステック・フォー』『ハルク』などがある。前述のパウ!エンタテインメントは、リーが制作する作品の制作会社。リーの作品は今までに世界75カ国、25カ国語で発売され、合計20億冊が出版されている。彼が生み出してきたキャラクターは数々の大ヒット映画とテレビシリーズになっている。
TODD McFARLENE(トッド・マクファーレン)とは
アカデミー賞、エミー賞受賞経歴を持つプロデューサー、ディレクター、漫画家、おもちゃデザイナー。1980年代のマーベル・コミックが出版したスパイダーマン・フランチャイズの作品で一躍アメコミ界のスーパースターとなる。1992年、自身のコミックシリーズ『スポーン』(SPAWN)を発表。作品の主人公は1990年代を代表する大人気のヒーローとなり、実に170万冊を売り上げるというインディコミックとしては前代未聞の功績を収めた。テレビシリーズ化された大ヒットシリーズはHBOで放映され、エミー賞を受賞。ニューラインシネマが制作したアクション映画は1億ドルの業績をあげ大成功となり、おもちゃ会社『マクファーレン・トイズ』(MrFarlane Toys)を立ち上げる。現在アメリカを代表するアクションフィギュアメーカーにと成長し、ヘイロー:リーチ(HALO:Reach)、NFL、NBA、MLB、NHLの公式フィギュアを製作するメーカーでもある。その他ビデオゲーム、映画、テレビ番組、音楽のプロデュースなども行なっている。
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● YOSHIKI主人公!アメコミ出来た
ロックバンド、X JAPANのYOSHIKIが米サンディエゴで21日(日本時間22日)、アメリカンコミック「ブラッド・レッド・ドラゴン」の披露記者会見に出席した。
主人公のロックスターがピアノのある音符を鳴らすとスーパーヒーローに変身し、闇の力を打ち負かしていく物語。実はYOSHIKIが主人公のモデルになっており、「スパイダーマン」などの原作者で“アメコミ界の巨匠”の異名を持つスタン・リー氏(88)、「バットマン」などのイラストを手掛けた漫画家、トッド・マクファーレン氏(50)が製作に携わっている。
YOSHIKIは両氏とともに、約2000人の観衆の前に登場。すでに複数に及ぶ映画化のオファーが殺到しているといい、「打倒バットマン!!」と高らかに宣言だ。さらに自ら作品をイメージして作曲したミュージック・チップが挿入された予告版コミックを、来場者に配布した。
17日にはかつてのXのベース、TAIJIこと沢田泰司さん(享年45)が急死。関係者が会見の中止を検討するなど欠席の可能性もあったが、「Show Must Go On!(何が起ころうとも)ショーを続けなければならない」と力説した。
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■ 2011年07月21日13:00 - 14:00
Comic-Con 2011 in
at
さて…。もう本日ですね?
(現地ではまだかな?)
一応、アナウンスでは21日となっていましたが。
http://www.spawn.com/news/news6.aspx?id=13759
22日にも何かやるんですかね?
■ 2011年07月22日14:00 - 15:30
何かサイン会?
それともサインされたものが販売?グッズ?
ちょっとよくわからないのですが…。
で…。
http://www.comicbox.com/index.php/news-english/
image-comics-in-october-2011/?pid=10028
この記事によりますと、
■ 2011年10月05日
「BLOOD RED DRAGON #0」
24 PAGES / FC / T
$3.99
これはエピソード0のコミックが販売になる。
んでしょうかね?
アニメが始まる前に、何かしらのコミックが出るのかな?
こちらにはスタッフ(?)のインタビューや、
設定画などが。
それにしても…このセンスは理解出来ない…(汗)
まあ…プロモーションの一環と考えれば…、
いいのかな??(苦笑)
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● YOSHIKIも初参加! オタクの祭典「コミコン」を重要視するハリウッド映画の狙い
いよいよ7月21日からコミコン・インターナショナル(Comic-Con International)が始まる。今回最大の話題は、スティーブン・スピルバーグが初めて出席することだ。
【関連写真】フランシス・フォード・コッポラが新作プロモーションで20年ぶりにコミコンに出席
コミコンとは、コミック・コンベンションの略。映画ファンなら耳にしたことがあるはずだが、実はそれが何かよくわかっていない人もきっと多いのでは。ひとことで言うとコミックや関連する芸術を愛するファンのためのイベントで、アニメ、アメコミ、SFなどのジャンルにからんだタレントや監督が出席したり、映像上映が行われたりする。
毎年7月下旬に4日間、サンディエゴのコンベンションセンターで開かれ、会場はアニメや映画のキャラクタ−に扮したファンたちでいっぱいになる。
もともとは、オタクたちが盛り上がるイベントだったこのイベントは、近年、ハリウッド映画のマーケティングにおいて、重要な役割を果たすようになってきた。とくにアメコミを映画化する場合など、公開がまだ先でも、ここでファンたちと良い関係を作っておくのは非常に大事。映像上映でファンの反応が鈍いとスタジオはあわてて再撮や追加撮影をしたり、編集をやり直すし、逆に熱狂的に受け入れられると、業界内でのその作品への期待は大幅に高まる。 スピルバーグが今回わざわざここに足を運ぶのは、この冬北米公開される「タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密」(日本公開は12月1日)のためだ。ヨーロッパでは昔から愛されてきたが、アメリカ人は「タンタン」に馴染みが薄い。
スピルバーグとピーター・ジャクソンが組むのはビッグニュースだが、この知られていないキャラクタ−たちの物語を、パフォーマンス・キャプチャーで映画化してどれほど当たるものか疑問視する声はなんとなく高まっており、ここで好意的な反応を得て、流れを変えたいというのが本音だろう。
ところで今年は、なんと意外なことに、YOSHIKIも初出席する。伝説的コミック・アーティスト、スタン・リーとトッド・マクファーレンがYOSHIKIとコラボレートして生み出した新しいコミック「Blood Red Dragon」のお披露目だ。彼のコミコン体験は、果たしてどんなものになるだろうか。(文:猿渡由紀)
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■ 2011年07月07日24:00 -
ハリーポッターと死の秘宝 PART.2
ワールドプレミア YouTube生配信
さて…。
今夜から生配信をするようです。
が…。
まあ…ここにYOSHIKIが出るかどうかはわかりませんが(苦笑)
興味の
ある方はチェックしてみてはどうでしょうか??
■ 2011年07月01日 ~ 09月30日
UNDERGROUND KINGDOM カード キャンペーン
UNDERGROUND KINGDOMカード(YOSHIKIカード及びyoshikittyカード)をお持ちの方で、下記キャンペーン条件を満たした方全員にニューデザインの「YOSHIKIオリジナルQuoカード」をもれなくプレゼント!!
◆対象
2011年9月15日(木)までにUNDERGROUND KINGDOM VISAカードまたは、UNDERGROUND KINGDOM マスターカードが発行されている方
◆キャンペーン内容
2011年7月1日(金)〜9月30日(金)までに「iD」を20,000円以上ご利用になると、ニューデザインの「YOSHIKIオリジナルQuoカード」(500円分)が全員にプレゼントされます(デザインは現在作成中)
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掲載が遅くなりましたが、
すでにキャンペーンが始まっていますね~。
前回は確か3万円でしたよね?
今回は2万円。
なかなかカードで払うことってないんですが、
近所にはiDで支払いが出来るガソリンスタンドがあるんで、
ここで使うとあっという間にたまります(笑)