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■ 2009年7月7日
「産経新聞 朝刊」
本日の産経新聞にYOSHIKIのインタビューが掲載されています。
もう何度も聞いた話ですけどね…(笑)
それとは、また違う記事です。
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● XJAPANのYOSHIKI 林佳樹から世界進出の軌跡
ロックバンド「X JAPAN」を率いるYOSHIKI(年齢非公表)。クラシックとロックを融合させたその音楽は「ビジュアル系」と呼ばれる新ジャンルを確立した。いかにして林佳樹はYOSHIKIとなったのか。父親とHIDEの謎の死。時の首相からのラブコール。そして盟友のまさかの逮捕劇。世界進出という目標を掲げた今、これまでの軌跡を明かす。(久保阿礼、文中敬称略)=2009年6月9日掲載=
◆出生-父の自殺に「実感わかず」
父はリンカーン・コンチネンタルに乗り、クラシックやジャズにも精通し、ダンサーとしても活躍していた。
千葉県館山市。林佳樹は、呉服店を営む裕福な家庭で育てられた。しかし、小児ぜんそくに重度のアレルギー、2度の交通事故による後遺症を抱え、満足に外を駆け回ることもできなかったという。
対照的に、幼稚園からの幼なじみだった出山利三(TOSHI)は運動神経も良く、体も丈夫だった。そんな友人をうらやましく思っていた佳樹だが、父は病気がちな息子の知的好奇心を満たそうと、本やレコードを惜しみなく与えた。
小学2年生の時、佳樹は病床で父から贈られた偉人伝、特に若くして難聴となりながら、名曲を作り上げたベートーベンに強い興味を抱いた。それは4歳から始めたクラシックピアノへの興味をより強くさせたという。
ある時、父の所有するレコードを円盤のようにして投げ捨て、そのほとんどを台無しにしたことがあったという。
「僕が好き勝手に何やっても、怒られなかったですね。父のレコードを何百枚も投げて壊しても、まったく怒られなくて。ひょっとして壊すことは悪いことではなかったんじゃないかって思いましたよ」
小学5年生、10歳の夏だった。優しかった父が自殺する。動機は分からない。
「なぜか死の実感がわかなかった」
実感がわかなかったのは、後に訪れたもう一人の死の時も同じだった。
◆別れ-98年5月「母のような存在」の親友がまさか
林佳樹からYOSHIKIへ―。1989年のデビュー以降、X JAPANは、CD売り上げや観客動員など数々の記録を打ち立て、「ビジュアル系」という新ジャンルを確立した。熱狂的なファンはYOSHIKIを後押しした。メンバーとは「世界へ行こう」と約束していた。
しかし、1997年12月31日の東京ドームライブ、紅白歌合戦を最後に、解散する。セミナー参加を繰り返すTOSHIとの間に生じた確執が原因だった。
幼なじみと決別したYOSHIKIを支えたのはHIDEだった。
「HIDEは、僕のお母さんのような役割でした。突っ走って行く自分を見守ってくれるようなそんな存在。『好きなようにやってほしい。自分が、ちゃんとフォローするから』って」
だが、1998年5月2日、HIDEが急逝する。事故とも自殺とも言われている。真相は分からない。ロサンゼルスで訃報(ふほう)を知り、帰国してHIDEの亡きがらを前にしても、その現実を受け入れることはできなかった。
「今も一緒に夢に向かって走っているんだって思います。父やHIDEやファンの人たちに支えられ、良い意味でプレッシャーを感じる。そして、限界を感じません。死が訪れる最後の瞬間まで突っ走って行くのだと思います」
携帯電話には今もHIDEの電話番号が残されている。
◆復活-「今も夢に向かって一緒に走っている」
バンドの解散、そしてHIDEの死…。次々と現れる目の前の出来事にYOSHIKIは、ただどうすることもできなかった。
「僕はHIDEが亡くなった時に、人生を1回捨てているんです。(作曲家として)裏方に回ろうかと思ったり、もう2度とステージに立たないと思った時期があった」
だが、YOSHIKIは、スポットライトの中心に再び立った。1999年11月12日、天皇陛下即位10年をお祝いする国民祭典。オファーを受け、皇居前広場で約1万5000人を前に奉祝曲として「Anniversary」を演奏した。
「Xが解散して、2年間くらいの空白の後、初めてステージ立ったんですね。『復活するきっかけになった』と言っても過言ではないですね。お話を頂いたことに感謝していますし、またそういう機会を頂けるのであれば、光栄なことだと思います」
もがきながらも、音楽活動を加速させたYOSHIKI。その熱に感化された1人が当時、国民からの圧倒的な支持を得ていた首相、小泉純一郎だった。「Xのファン」と公言し、フィルムコンサートにも顔を見せたこともある。首相自らが出演した自民党のCMには「Forever Love」が使用され、HIDEと同じ神奈川県横須賀出身という縁もあった。
「HIDEが亡くなった後、直接『Xの曲が好きだ』と言っていただいて、雑誌で対談したりして…うれしいですよ。曲を純粋な気持ちで作った後は、どの世代だろうが、音楽というのは国境や世代も超えていけると信じてやってきたんです。年配の方や若い世代に聴いてもらえてうれしい」
その小泉元首相も次期衆院選には出馬せず、政界を去る。
「(出馬する次男の進次郎さんには)頑張ってほしいし、小泉さんもまたライブに来ていただきたいです」
◆結婚-子供にはドラムよりピアノ勧めたい
最近結婚願望が芽生え始めた。子どもが欲しいのだという。
「普段の生活が派手なので、落ち着く人がいいですね。子供が欲しいなと最近思うんです。まあ、その前に相手を探さないといけないけど。人間の本能でしょうか。生まれたらピアノを勧めたい。ドラムは…体壊すといけないからあまりお勧めできないです」
何事にも全力でぶつかる。だからだろうか、息抜きがうまくできないのだという。
「お酒を飲む、シャンパンとか何十本も飲んでしまいます。それで次の日、動けなくなっちゃったりとか。今、一番うれしい瞬間はファンと一体になること、ライブが終わった後の達成感ですね。最近、車もお酒も興味なくなってきちゃったんです。レーシングチームがあるのに、こんなこと言ったらまずいかな。フェラーリを何百キロでかっ飛ばすより、ファンのみんなと一体化して演奏をしている時の方が刺激的です。今は、X JAPANだけでほぼ手いっぱいです。でも、それだけでいいのかな、とも思います。99%音楽、でも、1%恋愛ぐらいはあるのかな」
◆小室哲哉との再タッグ「なくはない」
小室哲哉と出会ったのは1989年頃。共鳴する点が多かった2人の親交はその後も続き、小室の「globe」に加入したこともあった。
2008年11月4日。小室は著作権売却料として5億円をだまし取った詐欺の疑いで逮捕される。
「事件のことはLAで知りました。最初はどうしても信じられなかったです。何とも言えなかったです。複雑で悲しかったです」
音楽活動を再開しようとする友人に何を思うのか。
「自分が力になれることがあればと思っています。たまに電話でしゃべりますよ。今年に入って『元気出してね』と声をかけました。また一緒にやる可能性? ないということはないと思います。同じ音楽業界にいることだし。具体的に何かあるわけではないけど頑張ってほしい。そう願ってます」
第23回「主役再び」紙面イメージ ◆小松成美さん著書「YOSHIKI/佳樹」取材中に涙
「YOSHIKI/佳樹」(角川書店)の著者で、ノンフィクション作家の小松成美さん(47)がYOSHIKIと初めて会ったのが、1999年1月。雑誌の巻頭インタビュー企画として深夜12時から取材は始まり、終わったのが午前4時だった。その足で、サッカーの中田英寿を取材するため、イタリアへ出発したという。「日程が1日遅れれば、取材はできなかった」
その後、YOSHIKIからの指名を受け、取材を続行。100時間以上のインタビュー、10年の歳月を経て書籍化された。父の自殺、HIDEの死…、正面からその事実と向き合い、涙を流し、話が中断されることもあったという。
小松さんは執筆中に行き詰まった時には、HIDEのお墓参りをした。「HIDEさんにはお会いできなかったのですが、尊敬と感謝の気持ちを表したかった。それが心の支えになりましたね」
◆YOSHIKI (本名・林佳樹)。生年月日、年齢ともに非公表。千葉県生まれ。県立安房高卒。1982年、X(後のX JAPAN)を結成。派手なメークと髪形で演奏する「ビジュアル系」の元祖。絶大な支持を得るが、TOSHIとの確執により、97年に解散。ソロ活動を続け、99年、天皇陛下御即位10年をお祝いする国民祭典でピアノを演奏。2005年には愛知万博で公式イメージソングを手掛け、指揮者としても活躍した。07年、再結成。09年5月2日から、ワールドツアーを開始した。
(2009年7月7日12時03分 スポーツ報知)
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